※注意 本ブログには映画ドラクエのネタバレを含みます
『はじめに』
自分は物語を見るのが好きだ。それがゲームにしろ、アニメにしろ、ドラマにしろ媒体を問わず大好きだ。
創られたお話の中で生きる登場人物たちに、心を動かされたことは1度や2度ではない。時には、作品にハマりすぎて恋人を愛するが如く愛を注いできたことだってあった。
物語が好きだと、愛していると叫ぶことが好きだ。故に、巡り合う作品が、愛せる作品であってほしいと、いつも思っている。
そうやって物語との出会いを探す中で、本日見に行った作品が、『ドラゴンクエストユアストーリー』である。
国民的RPGの初のフルCGアニメーション映画化。原作としてシリーズの中でも特に人気の高い「ドラゴンクエストV天空の花嫁」をチョイスし、豪華俳優陣をキャストに採用、事前広告も大量に打ち、この夏の大作の一つとして大きく取り上げられていた。
自分は決してそこまで熱心なドラクエファンではなかったけれど、Ⅴは人生で初めてエンディングを見たゲームであったし、人並みに花嫁論争で主張できるくらいには思い入れのあるタイトルである*1。
さて、それで、この映画の感想であるが……
先に言っておくと、個人的には結構楽しめる映画ではあった。
幼年期をすっ飛ばし、青年期から始めた物語は、正直なところまあまあ不親切ではあっただろう。
なんかヘンリーがよくわからんキャラになってるし、ヒロイン関係はのちの展開に合わせてかちょっと無茶のある展開も混じっていたように思う。原作要素の拾い上げも(妖精のあたりとかは)やや雑だった。
一方で、主人公リュカのお話を描く上での取得選択はそこそこうまくできていたと感じる。気弱な少年が、父を失い、不幸な目にあいながらも成長し父の遺志を受け継ぎ世界を守るための旅をする――という流れ自体はしっかりしていて、少々古臭いノリとか無理やり差は感じつつ、映像美もあって思ったよりも楽しめた。
原作自体が話の流れがしっかりしているので、そこを大きく破綻させず要素を絞ったのがうまくいっていた感じだろうか。
映像は抜群に良かった。キャラデザに違和感はあるけれど、後半にはなれたし、ぐんぐん動くアクションは見ごたえがあって楽しかった。この路線で今度は原作そのままのアニメ化が欲しいと思うくらいにはよかったと思う。
「粗はあるけれど、それなりに褒められるところもあって、ドラクエⅤの映像化としては及第点くらいは付けられる、そこそこの作品」
というのが、自分の『ゲマ戦まで』の評価だった。
その評価が変わったのが、ラストのどんでん返しである。
『ドラゴンクエストはゲームである』
ゲマを倒し、ミルドラースを封印するために天空の剣を問へ向けて投げた瞬間、リュカ以外の世界は突然制止する。
困惑するリュカの前に現れたのは、ミルドラースの皮をかぶったウイルス。
リュカが旅してきた世界はドラゴンクエストⅤを最新技術を使ってリメイクした世界であり、リュカというのはその世界をプレイしているプレイヤーだったのだ。
そんな世界を壊すために送り込まれたウイルスは、崩れていく世界の中でリュカにこう告げる。
「大人になれ」
……予兆はあった。
冒頭のゲーム画面を使ったハイライトのような幼年期の描写。キューブのように消滅するモンスター、マーサのセリフ、意味ありげな映画のサブタイトル、キャッチコピー――
間違いなく、本作の肝であり、本作の評価を決めるシーン。
自分は、このシーンで、愛を奪われてしまったような、そんな喪失感を覚えてしまった。
覚えさせられて、しまったんだ。
『僕たちはリュカじゃない』
ウイルスに対し、リュカは立ち向かう。
「たとえ作り物でも、その思いは本物だ」
この言葉は、本当は、この映画を見た僕たちの言葉になるはずだったのかもしれない。
ドラゴンクエストは、ゲームである。
ゲームは所詮作り物。現実には存在していないドラマだ。けれども、ドラクエをプレイしているときだけは、僕たちはその世界の主人公になることができる。そこで体験する旅路は、覚える感情は、現実の僕らの心を揺らしてきた。
だから、所詮作り物だろう? と周囲に笑われたのだとしたら、僕らが返す言葉は一つ。
「所詮作り物に、ここまで心動かされるから面白いんじゃないか」
そう言って笑えばいい。
リュカの言葉は、これと全く同じ意味合いを持っている。
そして、この映画は「ドラゴンクエストユアストーリー」――「あなたの」、つまりは、「僕たち」の物語である。
「ドラゴンクエストは、それをプレイする人の物語であり、それは作りものであっても、その感動は本物である」
この作品は、きっとそう言いたかったのだろう。
リュカの言葉は、本来、僕たちの言葉であって、ミルドラースウイルスを否定するために、僕たちが叫ぶべき言葉を、リュカが代わりにほえたという形なのだろう。
リュカという主人公は、僕たち一人一人の代わりになるはず「だった」。
でも違うのだ。この映画は、僕の物語じゃないんだ。
リュカは限りなく僕でも、リュカは僕じゃないんだ。
リュカを自分の代わりだと思うことは、どうしてもできないんだ。
『ファンタジーの中でファンタジーを壊すということの意味』
この映画のテーマは、間違いなく、僕たちの想いそのものである。けれど、それなのになぜ、その言葉を吠えるリュカが僕の代わりになってくれないのか。そう思えないのか。
2つ、理由がある。
1つは、これが「映画」であるということだ。
ドラクエは原作がゲームである。故に、シナリオというのは「解放し、読み進めていく」ものであった。自分が行動し、選択し、成果を上げることでシナリオは進行する。だから、その世界に没入感であったり、強い感情移入を覚える。
一方で、映画とはシナリオが「流れていく」ものである。視聴者はあくまで俯瞰で見るもので、介入するものではない。故に、リュカという存在は感情移入の対象であっても、決して自分自身にはなってくれない。そもそも、リュカがたどった旅路は僕と全く違う旅路だ。「そういうもの」として、この物語を見に来たのだ。
だから、僕はリュカとしてその言葉を叫べなかった。
2つ目は、ドラクエを作り物だと叫ぶのが「物語の中」であるという点である。
創作物を笑うのは、いつだって捜索の外にいる現実の外野だった。彼らの言葉は、どれだけひどいものであっても、すでにある作品の形を変えることはない。故に、自分がその作品を好きであれば、そんな言葉いくらでも無視できる。
でも、今回それを否定したミルドラースは、物語の「中」にいる。
僕が愛したドラクエⅤは、所詮物語に過ぎないと、その物語の中から、否定する。
物語を肯定するリュカも、物語の中にいる。物語の中から、肯定する。
創りものであっても、確かに現実だと感じていた世界が、自らを作り物だと叫ぶ。
僕は、そんなシーンは見たくなかった。
物語の中で起こることが少なくともその中では現実ではあるから、僕は物語で笑ったり、泣いたりできるのだ。だから、ミルドラースがリュカの物語を所詮ゲームだと笑った瞬間、そこまでの映画の本編で感じていた感情が、すべて消えてしまった。リュカの旅路に感じていたすべての想いが、作り物として無くなってしまった。
そして、その時の僕の中には「リュカはゲームのプレイヤーである」という事実だけが残った。そのリュカは、僕の知っているリュカではなくなってしまったのだ。1時間以上旅路を見届けたリュカではなくなってしまったのだ。
だから、ドラクエを肯定したときのリュカは、僕にとって知らない人になってしまった。リュカの言葉は、知らない人の言葉になってしまった。
その言葉は、僕の言葉を代弁してはくれなかった。
……そして、映画が終わったときには、僕の中でリュカの物語は、作り物になってしまっていた。
『映画ドラクエを愛したかった』
ゲマとの戦いまでのこの映画は、確かに愛せる映画だった。少なくとも、僕自身にとっては。粗削りでも、確かな魅力のある作品だったんだ。
けれど、この映画は、それを作り物と言ってしまった。現実ではないのだと、僕たちに突き付けてしまったのだ。
この脚本を書いた人は、その言葉の意味を理解していたのだろうか。
作品の中で、「これは作り物に過ぎない」、そう叫ぶことが、どれだけ視聴者にとって大きな意味を持つのか、考えていたのだろうか?
たとえ、どれだけ唱えるテーマが正しくても、それが、現実の言葉でなければ届かないということを、理解していたのだろうか?
「作り物であっても、そこで覚えた感動は本物」
全くもってその通りだ。だから、この世に存在する物語は素晴らしい。
……だからこそ、物語の中だけでも、そのすべてが現実のものであってほしかった。作り物だなんて、叫ばないでほしかった。
作り物の中で生まれた現実を、愛せる作品であってほしかった。
映画「ドラゴンクエストユアストーリー」が、自分にとって愛せる作品であってほしかった。
この作品を、愛したかった。
それができないことだけが、ただただ、残念でならない。
©2019「DRAGON QUEST YOUR STORY」製作委員会
*1:ちなみに自分はデボラ派だ