時空を超える「これすき」

アイマス中心に、とにかく好きなものを好きということをメインとしたブログ。 Twitter → @hatenakiniwaka

【ネタバレ感想】映画「ドラゴンクエストユアストーリー」を愛せなかったオタクの嘆き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※注意 本ブログには映画ドラクエのネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はじめに』

 

 

 

 自分は物語を見るのが好きだ。それがゲームにしろ、アニメにしろ、ドラマにしろ媒体を問わず大好きだ。

 

 創られたお話の中で生きる登場人物たちに、心を動かされたことは1度や2度ではない。時には、作品にハマりすぎて恋人を愛するが如く愛を注いできたことだってあった。

 

 物語が好きだと、愛していると叫ぶことが好きだ。故に、巡り合う作品が、愛せる作品であってほしいと、いつも思っている。

 

 そうやって物語との出会いを探す中で、本日見に行った作品が、ドラゴンクエストユアストーリー』である。

 

 

 

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 国民的RPGの初のフルCGアニメーション映画化。原作としてシリーズの中でも特に人気の高い「ドラゴンクエスト天空の花嫁」をチョイスし、豪華俳優陣をキャストに採用、事前広告も大量に打ち、この夏の大作の一つとして大きく取り上げられていた。

 

 自分は決してそこまで熱心なドラクエファンではなかったけれど、Ⅴは人生で初めてエンディングを見たゲームであったし、人並みに花嫁論争で主張できるくらいには思い入れのあるタイトルである*1

 

 さて、それで、この映画の感想であるが……

 

 

 

 先に言っておくと、個人的には結構楽しめる映画ではあった。

 

 幼年期をすっ飛ばし、青年期から始めた物語は、正直なところまあまあ不親切ではあっただろう。

 

 なんかヘンリーがよくわからんキャラになってるし、ヒロイン関係はのちの展開に合わせてかちょっと無茶のある展開も混じっていたように思う。原作要素の拾い上げも(妖精のあたりとかは)やや雑だった。

 

 一方で、主人公リュカのお話を描く上での取得選択はそこそこうまくできていたと感じる。気弱な少年が、父を失い、不幸な目にあいながらも成長し父の遺志を受け継ぎ世界を守るための旅をする――という流れ自体はしっかりしていて、少々古臭いノリとか無理やり差は感じつつ、映像美もあって思ったよりも楽しめた。

 

 原作自体が話の流れがしっかりしているので、そこを大きく破綻させず要素を絞ったのがうまくいっていた感じだろうか。

 

 映像は抜群に良かった。キャラデザに違和感はあるけれど、後半にはなれたし、ぐんぐん動くアクションは見ごたえがあって楽しかった。この路線で今度は原作そのままのアニメ化が欲しいと思うくらいにはよかったと思う。

 

「粗はあるけれど、それなりに褒められるところもあって、ドラクエⅤの映像化としては及第点くらいは付けられる、そこそこの作品」

 

 というのが、自分の『ゲマ戦まで』の評価だった。

 

 その評価が変わったのが、ラストのどんでん返しである。

 

 

 

 

 

 

ドラゴンクエストはゲームである』

 

 

 

 ゲマを倒し、ミルドラースを封印するために天空の剣を問へ向けて投げた瞬間、リュカ以外の世界は突然制止する。

 

 困惑するリュカの前に現れたのは、ミルドラースの皮をかぶったウイルス。

 

 リュカが旅してきた世界はドラゴンクエストⅤを最新技術を使ってリメイクした世界であり、リュカというのはその世界をプレイしているプレイヤーだったのだ。

 

 そんな世界を壊すために送り込まれたウイルスは、崩れていく世界の中でリュカにこう告げる。

 

「大人になれ」

 

 

 

 ……予兆はあった。

 

 冒頭のゲーム画面を使ったハイライトのような幼年期の描写。キューブのように消滅するモンスター、マーサのセリフ、意味ありげな映画のサブタイトル、キャッチコピー――

 

 間違いなく、本作の肝であり、本作の評価を決めるシーン。

 

 自分は、このシーンで、愛を奪われてしまったような、そんな喪失感を覚えてしまった。

 

 覚えさせられて、しまったんだ。

 

 

 

 

 

 

『僕たちはリュカじゃない』

 

 

 

 ウイルスに対し、リュカは立ち向かう。

 

「たとえ作り物でも、その思いは本物だ」

 

 この言葉は、本当は、この映画を見た僕たちの言葉になるはずだったのかもしれない。

 

 ドラゴンクエストは、ゲームである。

 

 ゲームは所詮作り物。現実には存在していないドラマだ。けれども、ドラクエをプレイしているときだけは、僕たちはその世界の主人公になることができる。そこで体験する旅路は、覚える感情は、現実の僕らの心を揺らしてきた。

 

 だから、所詮作り物だろう? と周囲に笑われたのだとしたら、僕らが返す言葉は一つ。

 

「所詮作り物に、ここまで心動かされるから面白いんじゃないか」

 

 そう言って笑えばいい。

 

 リュカの言葉は、これと全く同じ意味合いを持っている。

 

 そして、この映画は「ドラゴンクエストユアストーリー」――「あなたの」、つまりは、「僕たち」の物語である。

 

ドラゴンクエストは、それをプレイする人の物語であり、それは作りものであっても、その感動は本物である」

 

 この作品は、きっとそう言いたかったのだろう。

 

 リュカの言葉は、本来、僕たちの言葉であって、ミルドラースウイルスを否定するために、僕たちが叫ぶべき言葉を、リュカが代わりにほえたという形なのだろう。

 

 リュカという主人公は、僕たち一人一人の代わりになるはず「だった」

 

 

 

 でも違うのだ。この映画は、僕の物語じゃないんだ。

 

 リュカは限りなく僕でも、リュカは僕じゃないんだ。

 

 リュカを自分の代わりだと思うことは、どうしてもできないんだ。

 

 

 

 

 

 

『ファンタジーの中でファンタジーを壊すということの意味』

 

 

 

 この映画のテーマは、間違いなく、僕たちの想いそのものである。けれど、それなのになぜ、その言葉を吠えるリュカが僕の代わりになってくれないのか。そう思えないのか。

 

 2つ、理由がある。

 

 1つは、これが「映画」であるということだ。

 

 ドラクエは原作がゲームである。故に、シナリオというのは「解放し、読み進めていく」ものであった。自分が行動し、選択し、成果を上げることでシナリオは進行する。だから、その世界に没入感であったり、強い感情移入を覚える。

 

 一方で、映画とはシナリオが「流れていく」ものである。視聴者はあくまで俯瞰で見るもので、介入するものではない。故に、リュカという存在は感情移入の対象であっても、決して自分自身にはなってくれない。そもそも、リュカがたどった旅路は僕と全く違う旅路だ。「そういうもの」として、この物語を見に来たのだ。

 

 だから、僕はリュカとしてその言葉を叫べなかった。

 

 

 

 2つ目は、ドラクエを作り物だと叫ぶのが「物語の中」であるという点である。

 

 創作物を笑うのは、いつだって捜索の外にいる現実の外野だった。彼らの言葉は、どれだけひどいものであっても、すでにある作品の形を変えることはない。故に、自分がその作品を好きであれば、そんな言葉いくらでも無視できる。

 

 でも、今回それを否定したミルドラースは、物語の「中」にいる。

 

 僕が愛したドラクエⅤは、所詮物語に過ぎないと、その物語の中から、否定する。

 

 物語を肯定するリュカも、物語の中にいる。物語の中から、肯定する。

 

 創りものであっても、確かに現実だと感じていた世界が、自らを作り物だと叫ぶ。

 

 僕は、そんなシーンは見たくなかった。

 

 物語の中で起こることが少なくともその中では現実ではあるから、僕は物語で笑ったり、泣いたりできるのだ。だから、ミルドラースがリュカの物語を所詮ゲームだと笑った瞬間、そこまでの映画の本編で感じていた感情が、すべて消えてしまった。リュカの旅路に感じていたすべての想いが、作り物として無くなってしまった。

 

 そして、その時の僕の中には「リュカはゲームのプレイヤーである」という事実だけが残った。そのリュカは、僕の知っているリュカではなくなってしまったのだ。1時間以上旅路を見届けたリュカではなくなってしまったのだ。

 

 だから、ドラクエを肯定したときのリュカは、僕にとって知らない人になってしまった。リュカの言葉は、知らない人の言葉になってしまった。

 

 その言葉は、僕の言葉を代弁してはくれなかった。

 

 ……そして、映画が終わったときには、僕の中でリュカの物語は、作り物になってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

『映画ドラクエを愛したかった』

 

 

 

 ゲマとの戦いまでのこの映画は、確かに愛せる映画だった。少なくとも、僕自身にとっては。粗削りでも、確かな魅力のある作品だったんだ。

 

 けれど、この映画は、それを作り物と言ってしまった。現実ではないのだと、僕たちに突き付けてしまったのだ。

 

 この脚本を書いた人は、その言葉の意味を理解していたのだろうか。

 

 作品の中で、「これは作り物に過ぎない」、そう叫ぶことが、どれだけ視聴者にとって大きな意味を持つのか、考えていたのだろうか?

 

 たとえ、どれだけ唱えるテーマが正しくても、それが、現実の言葉でなければ届かないということを、理解していたのだろうか?

 

 

 

「作り物であっても、そこで覚えた感動は本物」

 

 

 

 全くもってその通りだ。だから、この世に存在する物語は素晴らしい。

 

 

 

 ……だからこそ、物語の中だけでも、そのすべてが現実のものであってほしかった。作り物だなんて、叫ばないでほしかった。

 

 

 

 作り物の中で生まれた現実を、愛せる作品であってほしかった。

 

 

 

 映画「ドラゴンクエストユアストーリー」が、自分にとって愛せる作品であってほしかった。

 

 

 この作品を、愛したかった。

 

 

 それができないことだけが、ただただ、残念でならない。

 

 

 

 

 

 

©2019「DRAGON QUEST YOUR STORY」製作委員会

*1:ちなみに自分はデボラ派だ

映画『天気の子』ネタバレあり感想 「僕はこの映画を見終わったとき、拍手をしたくなった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※注意 本ブログは天気の子についてのネタバレが含まれます。天気の子を見た人だけ閲覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて新海誠という監督の作品に触れたのは『君の名は。』だった。

 

 その映画を初めて見たとき、映像の美しさや音楽の秀逸さ、生き生きと描かれた登場人物たちに強く感情移入し、とても楽しんだのを覚えている。

 

 映画館から出た後も、一緒に見た友達と映画の好きだったところを夢中でずっとしゃべり続けた。家に帰ってもドキドキを忘れられなくて、初めて同じ映画を2度見てみたり、小説などの関連書籍を読み漁ったりした。

 

 世間が君の名は。ブームに沸きあがっていくのに比例して、自分もまた新海監督の作品に夢中になっていった。

 

 

 

 あれから3年。新作である『天気の子』の公開日がやってきた。

 

 いつもなら苦手な早起きが、何故か今日はとてもすんなりできて、朝一番に劇場に向かい、9時公開の初回上映でしっかり見てきた。

 

 時に笑ったり、時にのめり込んだりしながら、2時間の長いようで短い上映時間を過ごした。

 

 その中で得た思いを、これから記していこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・とても魅力的なイントロダクション

 

 

 

 物語の導入というのはとても大事なものだと思うが、そういった意味では天気の子とても優れていたと思う。

 

 がむしゃらに島を飛び出した少年・帆高が甘い見通しで東京で行き詰まり、そこから須賀さんに拾われて始まるライター事務所での生活は、その描写のコミカルさも相まって手も魅力的な序盤だと思えた。今作は『君の名は。』と比べると大人の描写がくっきりしていて、メイン2人の若さととても対照的になっていた。

 

 そんな中で陽菜というヒロインを出会い物語が動き出し始める瞬間は、とてもワクワクした。

 

 ……やたら生々しい展開に面を喰らったりしたが。

 

 

 

 

 

 

・雨と晴れの美しい情景

 

 

 

 天気が大きな作品のテーマということもあり、情景の描写はとても気合が入っていた。

 

 一般的なアニメでも天気というのは場の雰囲気を表したり登場人物の心情とリンクし足りするが、天気の子では作品の盛り上がりに直結している。

 

 作中で穂高が言っていたように、天気にどこまでも心を揺らされる作品だった。

 

 それでいて、物語の前半と後半で天気に対する印象が大きく変わるのだから、すごい作品である。

 

 

 

 

 

 

・追い詰められていくその過程

 

 

 

 一人で島を飛び出した穂高が陽菜と出会い、自分たちで生活を回しだした……と思ったら、警察の補導というあまりにも生々しい展開で突然の終わりを迎える。

 

 このままではだめだと逃げ出して、何とかしようとしても、行き場などなくどんどん手詰まりが近づいていく。描写自体は異常気象による……という派手なものではあったが、何とかしようとする思いが空回りしどんどん追い詰められていく様は、子供の無力さをこれでもかと突き付けられるようできつかった。

 

 ホテルのシーンは微笑ましかったからこそ、その後の帆高の「何も引かないでください」という言葉が重たかったし、ベッドの上で2人で泣き始めたときには、画面を見るのもつらくなってしまった。

 

 そして陽菜が消えてしまった後、世界が晴れるわけだが、真夏日の日差しがあそこまでつらいと思う日が来るとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

・晴れより大切な人

 

 

 

 帆高という主人公は、終盤までずっと「無力な存在」として描かれ続ける。

 

 家出をして東京に飛び出してきたときも、晴れをお届けするときも、陽菜や凪と東京を逃げ回るときも、何もできないことの方が圧倒的に多かった。

 

 社会という空間に、ずっとそのルールを押し付けられるような存在だった。

 

 だからこそ、僕は後半に穂高が陽菜に会うために東京中を駆け巡るシーンに、強く心を打たれた。

 

 陽菜が作った世界をのんきに喜んでいる世界に憤り、いなくなってしまった彼女を悲しみ、「彼女に会いたい」という思いだけで、警察署から飛び出す。

 

 それは、何もできなかった穂高の「反乱」だったと思うのだ。

 

 世界が真っ当な天気を取り戻した。警察に捕まってしまった以上、素直に事情を話したほうがいいだろう。素直に話せば案外すぐに帰れるかもしれない。それで終わり。それが、普通の終わり方なのかもしれない。

 

 

 

 それでいいのか?

 

 

 

 だって、ここには、陽菜がいないんだぞ?

 

 

 

 だから、飛び出した。もう一度、陽菜に会いたいんだ。だったら、会わなくちゃいけない。

 

 あらゆる障害全てを仲間も協力もあって振り払い、そして、陽菜の元までたどり着く。

 

 そして言ったのだ。

 

 

 

「俺は晴れより陽菜がいい!」

 

 

 

 穂高は陽菜を引き戻した。陽菜は穂高と帰ってきた。

 

 挿入歌「グランドエスケープ」が流れた、空の中での2人のシーンを見たとき、自分は、何か心を強く締め付けられるような感覚を覚えた。

 

 それは、映画が終わった後すぐに配信サイトでグランドエスケープの音源を購入し、狂ったようにずっと聞き続けていることにもつながっている気がする。

 

 

 

 

 

 

・帆高と陽菜はなにをしたのか

 

 

 

 雨が降り止まなくなった東京で、成長した穂高は自らの選択に対して2つの言葉を聞く。

 

「東京は元に戻っただけ」

 

「世界はもともとくるっている」

 

 だから、「自分が世界の何かを変えてしまったわけではないのだ」と、考えることもできたのかもしれない。

 

 でも、穂高はそうは思わなかった。

 

 

 

 

「あの日、確かに世界を変えたのだ」

 

 

 

 そう、言う。

 

 あの日、穂高と陽菜は確かに世界を変えたのだ。

 

 陽菜が背負っていた運命を投げ出し、天気を正すことをやめ、世界の異常を正常に変えてしまった。

 

 それでいいのだと。

 

 それでも、僕たちはここにいるから。

 

 だから、「大丈夫」と。

 

 

 

 

 

 

・見終わったときに感じた感情の正体

 

 

 

 天気の子は、理不尽なお話だと思っている。

 

 正直に言ってしまえば、陽菜の「晴れにする能力」を押し付けられたのも、陽菜からすればひどい話だとは思わないだろうか?

 

 確かに彼女は、晴れを願った。母親と一緒に、もう一度晴れの日を歩きたいと。

 

 けれど、どうしてそれが「世界のために身をささげる」なんて話になるのだ?

 

 あんまりじゃないか。それが世界にとって正しいことみたいになるのは、理不尽じゃないか。

 

 陽菜はただ生きたかっただけなのだ。凪とともに、どんなに小さい場所でもいいから、ただ、このままを暮らしたかっただけなのだ。

 

 穂高も陽菜も、終盤まで誰かの都合に縛り付けられる存在だった。そしてそれは、悲劇ではあるけれども、なんだか正しい物語のようにも思えるのだ。

 

 須賀さんが「一人の犠牲で救われるならそれでいいじゃないか」という言葉が、耳に痛かった。この物語を見ている自分自身が、それでいいような気がしたのだ。それが正しいと思ったのだ。

 

 この記事を書いている自分は大学生である。バイトはしているので最低限の社会経験はあるが、お酒は飲めないくらいの、典型的なモラトリアム。天気の子という作品においては、多分夏美一番近い。

 

 夏美の心情については小説で保管されているので是非見てほしい。彼女は、陽菜が犠牲になって終わるという展開に納得できない気持ちを持ちながら、須賀の言葉の正しさを認めていた。それが普通のような気がしたのだ。

 

「陽菜だけの被害で終わるならそれでいいじゃないか」

 

 それ良しとしなかったのが、穂高だったのだ。

 

 世界とか、そんなのどうでもいい。陽菜に会いたいと、そう叫び、実行する穂高が。

 自分は、心の底から眩しかった。

 

 合理性とか、正統性とか、そんなもの全部を無視して、ただ自分が思うままに行動することができた穂高に、自分はぶん殴られたような気分になった。

 

 そんなわがままみたいな決断をして、貫ける穂高が、羨ましかったのだ。

 

 だから、自分は肯定したい。正しくなくても、誰かにけなされるかもしれなくても、自身の想いを貫いた2人の想いを。決断を。

 

 それは正しいのだと、叫びたい。

 

 

 

 天気のこの物語をすべて見終え、劇場内に再び明かりがともったとき、自分は思わず拍手をしそうになった。

 

 それは、感動したとか、面白かったとか、そういう気持ちももちろんあったけれど。

 

 何より自分は称えたかったのだ。きっと自分ではできないだろう行動をした穂高たちを。その物語を紡いでくれた監督を。そのも語りを伝えてくれたスタッフやキャストの皆さんを。

 

 自分は、この物語に出会えてよかったと、伝えたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

・総評

 

 

 

 天気の子は穂高が世界にあらがう話だった。それはある意味で、決まった運命にあらがう「君の名は。」に酷似しているといえるかもしれない。

 

 けれど、違う。この物語は、誰かの諦めや縛りによって作られた、不確かな、けれど確かにいつもそこにある世界にあらがう話だ。

 

 窮屈で、理不尽で、正しそうなあらすじを否定し、自らの想いを貫いた穂高たち。その瞬間のカタルシスは、何事にも代えがたいものだったと、自分は思う。

 

 もしかすると、穂高たちの選んだ道は、多くの人にとって受け入れられないものであったかもしれないけれど。

 

 それでも自分はこう言いたい。

 

 

 

 この、『天気の子』は、傑作であると。

 

 

 

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 本当に、見れてよかった。

 

 今は、そう思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


・劇場を出た後で

 

 

 これは余談になるのだが、映画を見た日は午後から大学だったので、そそくさと映画館を飛び出したところ、朝の晴天が嘘のように雨が降り出した。

 

 大学に向かう途中降りやまず、濡れて無駄に疲れてと散々だった。

 

 けれど、何故か妙にそんな雨すら、ちょっと嬉しかったのは、われながら気持ち悪い気はしつつ、いいなあと思った。

 

 

@2019「天気の子」製作委員会

アイマスライブを見に行くときの「映画」を見に行くようなワクワク感の話

 

 

 

 

 

 

 

 アイドルマスターというコンテンツに触れて熱心に追いかけるようになってしばらくたった。初めのころこそゲームやアニメをやっているだけで十分満足できたのだが、いつの間にやらそれだけで満足できなくなっていって、「行かなくていいライブはない」といい始めるくらいにはアイマスライブというものにどっぷりハマってしまった。

 

 LVから初めて、気づけば半年で3回現地に行くような人間になってしまい、田舎の貧乏学生としては金銭面への負担がすさまじくひもじい日々を送っている。楽しいからOKですと開き直りそうになるの良くない。

 

 

 まあとはいえ、アイマスのライブに通いまくっていると5年前くらいの自分に言えば、「貴様堕ちたな」と中2病の自分に酷評されそうなもんではある。

 

 

 今でこそ当たり前なことだが、現実には存在しないゲームの中のアイドルの声優さんが衣装を着てステージに立ち、歌やダンスを披露するというのはまあまあクレイジーなことだ。正直自分も昔は良さがさっぱりわからなかった。


 歌を歌っている以上、声優さんもアーティストだし、ライブをやること自体は変なことではないんだろうが、キャラの分身としてステージに立っているというのはなかなか異質なこと。

 

 

 今でもたまに、知り合いから「キャラじゃなくて声優をみて何が楽しいの?」みたいなことを言われることは、ある。

 

 これに対する人のアンサーは人それぞれだと思うし、千差万別の答えがあってしかるべきだろう。

 

 

 ただ、自分はどう考えているか、と聞かれれば、こう答えたい。

 

 

「自分は、アイマスの物語を見にライブに参加します。それこそ、映画を見に行くみたいに」

 

 

 ライブというのは、音楽を中心としたパフォーマンスを披露する舞台である。


 そこにはいつだって、見ている人に伝わる何かがあるわけで。


 アイマスライブはとりわけ、そのパフォーマンスに「ストーリー」が詰まっていると思う。

 

 

 そもそも論なのだが、アイドルマスターとはプレイヤーがプロデューサーとして担当アイドルをプロデュースする、というゲーム性である。


 様々なアイドルと出会う中で自らの担当を決めて(もちろん1人に決めない人もいる)、その人が悩んだり、苦しんだりしながら、アイドルとして進んでいく様を隣で追いかけていく。


 据え置きだろうがソシャゲだろうが、ポチポチゲーだろうが音ゲーだろうが、決してぶれることのない第一前提である。

 

 

 ゆえにアイドルマスターは、コンテンツの受け取り手に「ファン」であること以上に「プロデューサー」であることを望むことが多い。


 コンテンツの大きな発展にあったときに「プロデューサーさんのプロデュースのおかげです」と言ったりするのは、「ファンの皆さんの~」的なものとの言い回しの違いでしかないとはいえ、受け手としては大きく印象の変わることだろう。

 


 その受け手にプロデューサーであることを望むような部分は、音楽面にも反映されることが多い。

 

 アイドルというのは本来ファンに向けられるものである。だが、アイドルマスターでは、「これはプロデューサーへの言葉も含まれているのでは?」、「これはアイドルとプロデューサーしか知らないお話が元になっている曲だ」という曲がいくつかある。

 

 これは、「アイドルがその歌を歌うまでに何をしてきたか」を知っているプロデューサーが主な聞き手だからこそ、出来る手法といえるだろう。

 

 普通であれば、「音楽を介してアーティストに出会う」という過程であるはずなのだが、「アーティストを通して歌と出会う」というのが、アイドルマスターであるといえる。


 アイドルマスターにおいては、歌すらもまた、1人1人のアイドルたちのストーリーを語る手法なのだ。

 

 

 この手法は、ライブでも貫かれている。


 アイドルの分身としてステージに立つ声優の皆さんは、こちらに「プロデューサー」と呼びかける。それは、歌っているときでも。


 その時間は、本質的に言えば、ゲーム中でアイドルのコミュを呼んでいるときと同じだ。


 アイドルとの触れ合い方が、テキストなのか、音楽なのか、という違いでしかない。

 

 だからこそ、自分はライブに映画を見に行くときのようなワクワクを覚える。

 

 ゲーム、漫画、アニメ、多様なメディアでいろいろな経験をしてきたアイドルが、そのすべてが一つに収束し、声優さんという最高の相棒を通して、濃密なストーリーが描かれる。

 

 

 その瞬間が、自分は、たまらなく大好きなのだ。

 

 

 

 それこそが、自分がライブに行く理由であると、胸を張って言うことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 アイマスの音楽の裏側には、いつだってドラマがある。そのドラマを追いかけるようにみると、普通の音楽ライブとはまた違う面白さがあるはずだ。

 

 

 

 

 これからも、そんな素敵な物語に出会えることを願って、自分はライブに生き続けたい。

 

 

 

未央担当でりあむ担当の自分、マジで困惑してる中でできた文章

 

 まず大前提として、今からするのは中間3位の夢見りあむと1位の本田未央がシンデレラガールになったらどうなるかという話だけど、これはほかの子がシンデレラガールになる可能性を否定するものではないということ。


 ただ、どうしても担当としてその2人を特別に思ってしまうかもしれない自分が、あり得るかもしれない未(央)来をちょっとだけ夢見(りあむ)てみるブログになります。うまくないか。笑う。

 

 

 

 改めましてこんにちは。ネクサス系統といいます。アイドルマスターを広く浅く沼って生きています。総選挙とライブが2つもかぶるのが悩みです。SideM4thは両日現地だから俺と名刺交換してくれよ!


 シンデレラガールズはたくさん担当がいて、メインは多田李衣菜かなあって感じだけど、こと総選挙に関してはちょっと違う思惑で頑張ってます。

 

 さて、お話はシンデレラガールズの総選挙のお話。中間発表が来ましたね。


 いろいろと思うところはあったけど、個人的にやっぱデカかったのは未央とりあむ。とにかくこの2人は、自分にとっていろいろ特別な子だったりする(あこんな感じの自分か足りしかしないよ!)。

 

 そもそも今自分はブログに文章を乗っけてるわけなんだけど、このブログを始めたのは未央がきっかけだったりする。自分がTwitterでオタク垢を作って初めて迎えることになった総選挙が第7回。その選挙にあたって、自分が未央を好きになったきっかけであるデレアニの解説文を作ろうと思いまして。(過去記事も読んでみてもらえると嬉しい)


 そもそも自分は第6回から割とずっと未央ぶっぱしていたので、逆に言えば2年連続で悔しい思いをしてきたというところがある。何とかしたい、という思いは今も強い。


 未央というのはサービス初期から実装されてるシンデレラガールズの看板娘というべき子で、彼女自身の歴史はシンデレラガールズ全体の歴史と重なるところも大きい。出だしこそ長らく大変な時期もあったらしいが、CDデビューを経て多くの舞台で輝こうと努力してきた。


 そんな彼女に対し、Pたちはたくさんの想いを背負っている。「本田未央をシンデレラガールにしたい」というのは、目的は同じでも、その結論に至るまでの過程は様々だ。自分は[オンリーマイスター]というカードの思い出エピソードが理由だったりするけど(これも昔ブログで書いたりもした)、きっかけは彼女にかかわりのあるアイドルがきっかけなこともあるし、あるいは人から聞いた思いがきっかけだったりもする。


 彼女が積み重ねてきた過程を見てきた人たちの思いが1つの場所に行く道筋を描き出した。


 軌跡から導き出された道。それが、未央が今歩んでいる道だ。

 

 じゃあ、次は夢見りあむの話をしたいと思う。


 りあむに関してはモバの実装当初にビビっときた子で、実装45分くらいでディスコードのサーバーを作った記憶がある(りあむ鯖管理人してまーす)。


 まあいろいろ話題性の大きな子であったからのんびり追っていけたらいいのかと思っていたけど、そうも言ってられなくなった。中間3位ってなんだよ。


 りあむには、まだ何もない。そもそも実装されて数か月。メンタル的に弱く、現状への鬱屈さと、その状況を打開することへの困難さの二律背反の中で悶え苦しんでいる女の子。まだ何を為すまでもなく、ただただ、もがいているだけ(この辺の話は自分のTwitterの固定ツイートにあるから読んでもらえると嬉しい)。


 そんな彼女がなぜここにいるのかといえば、彼女は空気感を味方にしている。


 彼女にはなにもない。が。何もないが故に、背負わされているものがある。例えばその対象になるものは、純粋な見た目の良さだったり、滅茶苦茶な言動への面白さにだったり、マイナス方面を隠そうとしないところだったり。


 あるいは、もっとメタ的な期待を背負うこともある。


 新規が1位になったら笑えるだろとか、「こんなやつ」が1位になってしまえばいいとか、あんまり詳しくは言わないけど、真っ当化といわれるとちょっと怪しい期待を背負うこともまああったりなかったりする。


 そういう、個々人の思うがままの感情が、まだまだ何もないりあむの隙間に入り込み、無限に膨れ上がって出来上がったのが今の結果だ(もちろん、純粋に応援している人がいることがりあむ鯖などにも含め多数いるのは確かです)。


 未央が、というよりは、今まで何度も参加してきたアイドルが、積み上げていた思いを重い、確かなものとして積み上げることで今の位置にたどり着いた(もちろん、様々な外部要因はある)。


 そういう意味で、りあむが背負う思いは大多数のとても不安定な重さの想いだ。それは、拭けば飛ぶほど軽い興味かもしれないし、マグマみたいにドロドロした思いなのかもしれないし、はたまた外野から投げ込まれた危険球なのかもしれない。


 言ってしまえば「嵐」だ。吹いた瞬間は何よりも激しく、過ぎ去った後のことなんて何も考えてないから(ていうか考える人、陣営がいないから)起きてる現象。


 いわば、歴史(これは未央に限らずほかのアイドルすべてだが)VS話題性である。そして両方俺の担当である。いやこれどうしろと?

 

 そんなこんなで自分は今頭が痛い。しんどい。助けて。


 いやまあやることは変わらないんだが。未央に残りの投票権は全部ぶん投げる。それはガチ。


 正直、未央を1位にするために3年足搔いてるし、今更後に引けない。てかぶれるわけない。


 りあむが突き進む先には興味はある。もしこいつが声が付いたら絡むメンツが絶対面白いし、1位になったりしたら、「アイドルとして何もしてないのにシンデレラガールになるザコメンタルの女」が誕生する。メタと2次元の究極のずれが、意味不明な歪みを持ったアイドルが誕生する。


 でもそんなのは夢でいい。自分は夢見りあむを消費させたくはないのだ。


 夢見りあむはアイドルとしてのスタートラインに立つ前に、お祭り騒ぎだけでここにいる。今はまあ、楽しんでくれるのかもしれないけど、その熱がどこまで続くのかちょっとわかんない。飽きたらポイっとされそうで怖いんだよね。どう考えても「これから」の女の子なのに。


 分かる人にわかるように言えば、りあむを五条勝扱いはさせないよっていう話なので、まあ今後は彼女自身の周知を頑張りたいよ、と。

 

 自分用に文章をまとめようと思ったらわけわかんなくなってしまった。
 とりあえず言いたいのは俺の担当のどっちかが勝つとは思ってない。2位の加蓮をはじめ、多くのアイドルがめくり返してくることもあるだろう。


 担当の話だけをしておくと、まず本田未央は積み上げてきたいろいろがあって、いろんな人の想いを受けてあそこにいるよってこと。


 だから、票をくれとまでは言わないけど、なんでそんな風に思われてるのかな、みたいなことをほんの少しでも気にしてくれると嬉しい。


 そして、りあむに関しては、彼女を消費しないで上げてほしい。別に今回投票するにしてもしないにしてもどっちでもいいけど、たまにでいいから、炎上とか、やむとか、見た目の強いワード以外の彼女も見てほしい……なと。「目立ちたい、必要とされたいだけであって、炎上自体はおっかない」みたいなところも、少しでいいから大切にしてほしい、かな。

 

 まあここまで全部便所の落書きみたいなもんなんで、あんまり気にしないでください。

 

 不快になられたら、ごめんなさい。


 それでは。最後まで読んでいただきありがとうございました。

シンデレラガールズの新アイドルが自分の心を滾らせる理由

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その日、シンデレラガールズの扉がぶっ壊れた

 

 

 

 

 なんとなく個人的にずっと思っていたこととして、シンデレラガールズがちょっと停滞してるなあと思っていた。


 ガンガン曲が増えたり、ゲームに限らない多様なメディアミックスをしたり、単独ドームライブをしたり、どれも自分の心を滾らせたし、頭おかしいほど楽しんだけれど、それはああくまで既存の路線の発展であって、めちゃくちゃ新しいことをしているわけではなかったりもする(いや新宿のあれとかめちゃくちゃ新しいことなんだけどね)。


 少しずつだけど曲は増えるもの。少しずつだけどボイスは付与されてくもの。ライブイベントはやってくれるもの。


 それが当たり前なのはまあ精神衛生上はありがたいんだけど、現代のコンテンツとして現状維持はコンテンツの寿命を縮めるものだっていうのはぼんやりとだけど理解はしている。

 

 


 2018年は何回か、シンデレラガールズってあと何年続くのかなーなんてすこし考えたりもした。


 シンデレラガールズは、200人近くのアイドルがいる時点でバカなコンテンツだと思っている。まともなコンテンツじゃない。構造がいびつで欠陥建築なのになぜか崩壊しない(させてない)ビル……いや、サグラダファミリアかな。まあでもそんなトンデモなままあれこれ面白そうなことをひたすらやっていって、それがどこにもないような面白みを生んでいる。だからシンデレラガールズはクレイジーさを投げ捨てるともうそれコンテンツの終わりなのでは? 大丈夫か? と心配していた。

 

 


 結論から言うと問題なかった。新アイドルが来たから。


 新アイドル、何故か頭の中から消していたけど、「シンデレラガールズの閉塞感」をぶち破るのにこれ以上の選択肢はない。シンデレラガールズは個性のパンドラボックスなわけだから、単純にアイドル数が多ければ面白みは増える。というか0からアイドルを知っていくっていう過程がもう面白い。


 辻野~夢見のとんでもニュージェネの時点でほぼ成功といってもよかったんだろうけど、次のデレステの新規実装でシンデレラガールズの本気を見た。


 読みました? ちーちゃんずのイベコミュとカードの親愛度台詞。やばくなかった? あれ、デレステで声付きでアイドル増やしたからこそだったじゃないすか。めっちゃ面白かった。


 ちーちゃんずの2人はPの介入なんかなくても2だけの物語はあそこで完成してて、とっくのとうにあらすじは終わっててあとはもうエンドロールを待ってただけなんだけど、Pが加わり登場人物が3人になって、物語は終わらず第2章に。そして2人は、アイドルを知って、「ハマった」。エンドロールはすっ飛ばされ、閉じてた世界が広がって、無限に続く可能様な物語が始まった。


 これをリアルタイムで味わえるのって、最っっっっっっっっっっっっ高じゃない!?


 ちーちゃんずの話が多くなってしまったけど、新アイドルはみんな1癖も2癖もあってみているだけでワクワクしてくる。シンデレラガールズで今までしてこなかった初めての経験で、めちゃくちゃ面白かった。


 そして、この新アイドルの衝撃はいろんな所へ広がった。これを客観的に伝えるのは難しいけど、ちーちゃんずのイベントが直前のイベントよりアクティブが増えていたっていうのは、1つ無視できないデータだった。


 新アイドルたちは間違いなく、閉じつつあったシンデレラガールズをぶち破って、デカくした。


 それは、もしかするとささいなヒビ程度に過ぎないのかもしれないけど、この衝撃は、きっと数年後、大きな一歩につながる。そう思った。

 

 だから自分は、今、めちゃくちゃ心が滾ってる。抑えきれないくらい。

 

 

 

 

 

「全員にボイスがついてほしい」


 シンデレラガールズが好きなものなら1度は夢見たことがあるのであろう、大きくて、ゆえに途方もなく思える夢。自分のたまに考える。「この夢は、叶うのか?」


 頭の中でぐるぐる考えてみても、できるとうなずく夢見る自分と、無理だと首を振る皮肉屋な自分がどっちもいて、いつだって結論は出ない。結論なんかでないんだろう。だから、できるのはいつも祈ることだけ。


 でも、自分には一つだけ、断言できることがある。

 

 

 

「コンテンツが続く限り、可能性は0ではない」

 

 

 

 故に、自分は新アイドルを歓迎する。


 個性的な彼女たちが歩む道のりが楽しみだから。既存のアイドルたちとの化学反応を見てみたいから。新曲がとても魅力的だったから。


 彼女たちは、シンデレラガールズをもっと大きなコンテンツにしてくれるかもしれないから。


 シンデレラガールズは、まだまだ生き切ってやろうと足搔いているのが、強く伝わってくるから。


 なにより、とっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっても、面白そうだから。

 

 

 

 

 

 愛してるぜシンデレラガールズ
 君が死ぬまでこっちは魔法使いでいてやるから、これからも、末永くよろしくね。

 

 

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