アイドルマスターというコンテンツに触れて熱心に追いかけるようになってしばらくたった。初めのころこそゲームやアニメをやっているだけで十分満足できたのだが、いつの間にやらそれだけで満足できなくなっていって、「行かなくていいライブはない」といい始めるくらいにはアイマスライブというものにどっぷりハマってしまった。
LVから初めて、気づけば半年で3回現地に行くような人間になってしまい、田舎の貧乏学生としては金銭面への負担がすさまじくひもじい日々を送っている。楽しいからOKですと開き直りそうになるの良くない。
まあとはいえ、アイマスのライブに通いまくっていると5年前くらいの自分に言えば、「貴様堕ちたな」と中2病の自分に酷評されそうなもんではある。
今でこそ当たり前なことだが、現実には存在しないゲームの中のアイドルの声優さんが衣装を着てステージに立ち、歌やダンスを披露するというのはまあまあクレイジーなことだ。正直自分も昔は良さがさっぱりわからなかった。
歌を歌っている以上、声優さんもアーティストだし、ライブをやること自体は変なことではないんだろうが、キャラの分身としてステージに立っているというのはなかなか異質なこと。
今でもたまに、知り合いから「キャラじゃなくて声優をみて何が楽しいの?」みたいなことを言われることは、ある。
これに対する人のアンサーは人それぞれだと思うし、千差万別の答えがあってしかるべきだろう。
ただ、自分はどう考えているか、と聞かれれば、こう答えたい。
「自分は、アイマスの物語を見にライブに参加します。それこそ、映画を見に行くみたいに」
ライブというのは、音楽を中心としたパフォーマンスを披露する舞台である。
そこにはいつだって、見ている人に伝わる何かがあるわけで。
アイマスライブはとりわけ、そのパフォーマンスに「ストーリー」が詰まっていると思う。
そもそも論なのだが、アイドルマスターとはプレイヤーがプロデューサーとして担当アイドルをプロデュースする、というゲーム性である。
様々なアイドルと出会う中で自らの担当を決めて(もちろん1人に決めない人もいる)、その人が悩んだり、苦しんだりしながら、アイドルとして進んでいく様を隣で追いかけていく。
据え置きだろうがソシャゲだろうが、ポチポチゲーだろうが音ゲーだろうが、決してぶれることのない第一前提である。
ゆえにアイドルマスターは、コンテンツの受け取り手に「ファン」であること以上に「プロデューサー」であることを望むことが多い。
コンテンツの大きな発展にあったときに「プロデューサーさんのプロデュースのおかげです」と言ったりするのは、「ファンの皆さんの~」的なものとの言い回しの違いでしかないとはいえ、受け手としては大きく印象の変わることだろう。
その受け手にプロデューサーであることを望むような部分は、音楽面にも反映されることが多い。
アイドルというのは本来ファンに向けられるものである。だが、アイドルマスターでは、「これはプロデューサーへの言葉も含まれているのでは?」、「これはアイドルとプロデューサーしか知らないお話が元になっている曲だ」という曲がいくつかある。
これは、「アイドルがその歌を歌うまでに何をしてきたか」を知っているプロデューサーが主な聞き手だからこそ、出来る手法といえるだろう。
普通であれば、「音楽を介してアーティストに出会う」という過程であるはずなのだが、「アーティストを通して歌と出会う」というのが、アイドルマスターであるといえる。
アイドルマスターにおいては、歌すらもまた、1人1人のアイドルたちのストーリーを語る手法なのだ。
この手法は、ライブでも貫かれている。
アイドルの分身としてステージに立つ声優の皆さんは、こちらに「プロデューサー」と呼びかける。それは、歌っているときでも。
その時間は、本質的に言えば、ゲーム中でアイドルのコミュを呼んでいるときと同じだ。
アイドルとの触れ合い方が、テキストなのか、音楽なのか、という違いでしかない。
だからこそ、自分はライブに映画を見に行くときのようなワクワクを覚える。
ゲーム、漫画、アニメ、多様なメディアでいろいろな経験をしてきたアイドルが、そのすべてが一つに収束し、声優さんという最高の相棒を通して、濃密なストーリーが描かれる。
その瞬間が、自分は、たまらなく大好きなのだ。
それこそが、自分がライブに行く理由であると、胸を張って言うことができる。
アイマスの音楽の裏側には、いつだってドラマがある。そのドラマを追いかけるようにみると、普通の音楽ライブとはまた違う面白さがあるはずだ。
これからも、そんな素敵な物語に出会えることを願って、自分はライブに生き続けたい。